羽子板 押絵羽子板 西山鴻月 羽子板資料館
平成十三年六
浮世絵、奥村政信が描いた宝暦の女形、嵐喜代三郎の八百屋お七が恋人吉三郎の立ち姿の羽子板を手にしています。当時既にそのような工夫があったようです.                 羽根突きの道具を一枚のキャンバスに仕立て、人気スターを描くという奇抜な発想によって羽子板は、新春の縁起物に留まらず、江戸歌舞伎の人気とともに押し絵羽子板の基礎となりました.   
押絵羽子板の作り手も下絵師、面相師、押し絵師と次第に専門家し、浮世絵の爛熟期には下絵には「国貞・国芳」の墨の線による作品も残っています。               押絵羽子板は歌舞伎があってこそ成立する世界です。                   この押し絵羽子板が完成の域に達するのは明治の中期頃になります。それは団菊左-代目市川団十郎五代目尾上菊五郎初代市川左団次を軸とする歌舞伎全盛期の恩恵であり、名優が次々と演ずる新旧の狂言の型を、羽子板職人たちは熱心に研究し、役者衆も自らの羽子板の売れ行きによって人気を探ったといわれています。
押絵師たちはおつかいものをしてでも楽屋から入るのを身上としていました。木戸銭を払って入るなとはもっての他。職人たちは楽屋への出入りを一種の見栄にしつつ技を磨いていたのです。

押絵及び押絵羽子板は、絵師と押絵面相師との連携のもとでつくられて行きます。     絵師は下絵、面相、模様、小道具、向こう張り、裏絵などを押し絵作りの進行にあわせて描いていきます。

羽子板の良し悪しは面相で決まります面相は押し絵及び押絵羽子板の「顔」です。歌舞伎のレパートリーから構想を得て、羽子板の限られたスペースに人物を表現します。そのためには芝居の筋と役柄を良くのみこんで、細部にわたつて重みと美しさを与えなくてはいけません。面相師は狂言物歌舞伎の役者の似顔絵を巧の技として高めて今日に到りました。

時代を遡ると豊国・栄泉・国芳・国貞などの名代の浮世絵師か羽子板の構図や面相を手がけたと言われています。現在でも浮世絵のように面相を描きます。その書き方が羽子板にとって最もふさわしい面相です。

顔には陰影を付けずに隈取り、目の縁など濃淡を表す「うんげん法」という手法を取り入れ平面的な面相に深みを表しています。


下絵は押絵羽子板の設計図です下絵は細長い下部の狭くなる板の形に嵌っていなくてはならない。通常の絵画より立体的で彫刻より平面的という独特の制約を受ける。

羽子板型の紙に全体像とパーツのアウトラインを決める。同じ作品でも毎年絵柄を変えている。


下絵に合わせてボール紙を切る。綿を載せて布地でくるむ。アイロン状のこてで押さえて、一つのパーツの完成。

狂言や役者毎に衣装が変わります。


上絵とは衣装の柄、模様のことで衣装に模様を描くことは大正末期から始められました。実際の着物の布地を羽子板に用いることは大柄で適してしませんでした。

明治初期から刺繍縫い取りなど凝ったものが登場し、大正末期羽子板に使用する金襴、友禅等が織り染められ、上絵の技法が出るに及んで、押絵羽子板は一段と豪華さを加えて行きました。

押絵羽子板を手に取った人は、必ずを返します。そこには、裏絵という別な世界が展開します。裏には日本画の付立法等を使って、筆の勢いと丹精な色で見る人をすなずかせる、これが裏絵の醍醐味であり羽子板つくりの楽しみでもあります。

裏絵の絵柄としてはおめでたい松竹梅、日の出に鶴、その歳の干支、役者の家紋などを描きます。


出来上がったパーツを下から順に重ねて押し絵の部分を完成させます。

押絵羽子板の人物の背景を向こう貼りと言います。人物を引き立たせるためにさまざまな色や柄の布地が使用されます。

明治のころには鹿の子絞りなど贅沢なものもあり、大正に入り舞台の背景を描くよになりました。

出来上がった羽子板型の押絵を真鍮のクギで板に留めます。これで羽子板が完成致します。

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